なぜ心にぶっ刺さってしまうのか
あなたの発信、意図しない人に刺さったことはありませんか
たったひとつの投稿に、心揺さぶられた。
刺さりました!共感しました!泣きました。
発信していて、そんな言葉を頂戴することは
喜び以外の何者でもない。
ただ、思いがけず、
記事が意図しない誰かの心を動かしたことはないだろうか。
あるいは逆に、自分には関係ないはずの発信に、
なぜかざわっとした経験はないだろうか。
私はある。
発信を続けていると、
両方の経験をすることになると思う。
今日は、その「なぜ」について書いてみたい。
私の苦い経験
SNS発信の相談を受けていると、初心者の方がぶつかる壁のひとつにライティングがある、という話をよくする。
私自身、ライティングの力は嫌というほど知っている。
たった一投稿で7桁の売上が上がったこともあれば、書く力が足りなくて結果につながらなかったことも泣くほどある。
だからこそ、ライティングは大切だと思っている。
でも過去にXで、こんな趣旨の発信をした。
「SNSにおいては、ライティングよりもまず見てくれる人を増やすという行動が大事なこともある」
私が伝えたかったのは、
誰にも見られていない状態でどれだけライティングを磨いても、その文章を届ける場所がまだない、ということだった。
どんなにいい文章を書いても全然見られていないのに、それでもライティングが足りないのかと悩んでいる人があまりにも多かったから。
その発信に、ライティングを学んでいる発信者さんから長文のコメントが来た。
かすかに怒りを帯びていた。
その方は、これまでもやりとりしていた方で
私の過去の発信を知っていた。
私がライティング不要論者でないことも、きっとわかってくれていたはずだ。
冷静に読めば、私が「ライティングなんかいらない」と言っているわけじゃないことも、分かったと思う。
でも、感情は動いてしまった。
頭では分かっていても、感情が先に動いてしまうことがある。
それはなぜなのか、今日は言葉にしていく。
「肯定文」は
「否定文」を内包する
「〜したらいいよ」という発信は、提案のつもりだ。
でも受け取る側は、こうなるときが往々にしてある。
「ライティングより先に、見てもらう行動が大事」
↓
「ライティングを磨いている人は、順番を間違えている」
発信者にそのつもりがなくても、
肯定文の提案は自動的に否定文を内包してしまう。
例えば、Substackにおいても
「仲間を作ったらいいよ」という提案は、
仲間を作っていない人へ鋭利に届くことがある。
「まず見てもらう行動を」は、
ときとしてライティングに向き合っている人の選択を否定しているように聞こえる。
本来のターゲットじゃない人に届いてしまうのは「誤読」じゃない。
言葉に含まれた構造が、
勝手に別の宛先を生み出してしまうのだ。
なぜ意図しない人に届くのか
SNS発信には基本的に「この人だけに届ける」機能がない。
テキストや音声は、読んだ人・聞いた人全員のところへ、同じ温度で飛び込んでいく。
届いたものを人は無意識に、
「これは自分への問いかけかもしれない」と処理してしまうことがある。
特に、その言葉が自分の選択や、
自分が大切にしてきたものに触れたとき、その処理は瞬時に起こる。
既出の”私の発信に反応してくれた方”は、
ライティングに真剣に向き合っていた人だった。
それだけ大切にしてきたものだったから、
それを「後回しでいい」と言われているように感じた。
自分の選択を守ろうとする、防衛反応だ。
同じ言葉でも、立っている場所が違えば聞こえ方が変わる
ライティングを磨く、という行動は同じでも、
立っている場所によって意味がまるで変わる。
発信を見てくれる人が100人いる人が磨くのと、
まだ誰にも届いていない人が磨くのとでは、その「磨く」がまったく別の話になる。
見てくれる人がいる場所で磨けば、もっと深く届く。
でも、誰も来ない場所でどれだけ磨いても、その言葉を受け取る人がまだいない。
私が言いたかったのはそこだった。
でもその発信は、すでに見てくれる人がいる人のところへも届いた。
その人たちには、「あなたのやっていることは無駄だ」という言葉として届いたのかもしれない。
同じ言葉が、立っている場所が違う人に届いたときまったく別の意味になる。
これが、意図しない人に勝手に刺さってしまう、もうひとつの理由だと思っている。
受け取る側のあなたへ
もし今、誰かの発信にざわっとしたなら。
それはあなたが、その言葉を受け流せないくらい、何かに真剣に向き合っている証拠なのかもしれません。
自分の選択に自信があれば、またはこだわりがなければ
関係ない発信はするっと流れていく。
ざわっとするのは、きっとそれがあなたにとって大切なことだからだ。
それ自体は、大きな気づきにもなる。
ただひとつだけ、立ち止まってほしいことがあるなら。
その発信の宛先は、本当に自分だったか。
発信者はあなたに向けて書いていなかったかもしれない。
別の誰かに届けようとした言葉が、たまたまあなたの心に触れた。
それだけのことかもしれない。
発信する側のあなたへ
どれだけ丁寧に宛名を書いても、
言葉が別の宛先を生み出してしまうことがある。
それは防げないことでもある。
だから発信者に必要なのは
「誤読させないこと」じゃなくて、
「自分の言葉が、誰の何に触れうるか」を意識することだと私は思っている。
思いがけない場所で
誰かの感情が動いたとき、それは失敗ではない。
あなたの言葉が、誰かの大切なものに届いた、ということだから。
ただ、そこに怒りがあるなら。
その怒りを受け取って、次に活かす。
それが発信者として誠実でいることだと、私は思っている。
あなたには、心当たりがあっただろうか。
意図しない人に刺さってしまった経験も、
思いがけず刺さった経験も、どちらも発信の中に宿っているリアルだと思う。
誰かの発信が刺さった時、
思いがけず意図しない人に刺さった時、
一度立ち止まって考えてみることでさらに発信は深くなる気がしている。
そして最後に。
意図しない人に刺さってしまったとき、
あなたが本当に届けたい人にはしっかりと届いてるはずです。



言語化力と読解力って大事ですよね( ˙-˙ )スン