まだ傷も乾いていないのに
泣きそうになりながら読んだ記事がある。
書いた人の存在を、
それまで何も知らなかったのに。
フォローしていたわけでも、
やりとりしたことがあるわけでもない。
ただ流れてきた記事を
開いたら最後まで読んでいた。
その人が経験してきたことは、
私の経験とは全然違うもの。
でも読みながら、
なぜか自分のことを思い出していた。
Substackには、そういう記事が数多くある。
発信をしていると、
一度はぶつかる「自己開示」という壁。
最近、Substackをみてても気になっていることがある。
「自己開示しなきゃ」ということに囚われすぎて、Substackを見るのが苦しくなっている人が増えているんじゃないか、ということ。
今日はそんな話をしたいと思う。
人は、他人の話に興味がない
誰かの記事を読むとき、あなたは何を考えていますか。
「これ、私に使えるかな」
「私も同じ気持ちだったな」
「私はどうすればいいんだろう」
人の記事を読みながら、
自分に置き換えて考えていないだろうか。
人が一番興味があるのは、いつでも自分自身のことだ。
じゃあ、他人の自己開示は意味がないのか。
するだけ無駄なんじゃないのか。
といわれると、そうじゃない。
自己開示は読者の心を映す鏡にもなる
読者は書き手の話の中に、自分を見ている。
「わかる」
「私もそうだった」
「これ、私のことかもしれない」
この感覚が生まれたとき、読者はその書き手に一気に引き込まれる。
気がついたら最後まで読んでいたということが起きる。
では、なぜ苦しくなるのか
自己開示で消耗していく人には、こんな共通点があるように思う。
まだ消化しきれていない傷口を、
義務感で無理やり出そうとしている。
「自己開示しなきゃ」というプレッシャーから、
まだ癒えてもいない話を書こうとする。
まだ誰にも見せたくない部分を、無理に晒そうとする。
その結果、読者に共感してもらう前に、
自分自身が傷ついてしまう。
書くたびに消耗して、発信が怖くなって、苦しくなっていく。
中途半端な状態で出した自己開示は、
誰の心にも引っかからないことが多い。
それどころか、心配されたり、誤解されたりして、
想像していたような反応が返ってこない。
その結果、また傷つく。
完全に、タイミングを間違えている。
本来の自己開示には、癒しがついてくる
最適な順番で出した自己開示には、副産物が生まれる。
読者が共感してくれる。
「私もそうだった」とコメントが届く。
涙を流してくれる人が現れる。
その反応が、書いた本人の傷をもやさしく癒していく。
自己開示とは、書くことで自分も救われていくものなんです。
でもそれは、出せる状態の傷だから起きること。
まだ誰にも触れられたくない生傷のまま出しても、消耗して傷ついて終わるだけ。
もう出してもいいと思えた傷だから、言葉になる。
言葉になったから、人に届く。
届いた言葉が、またあなたを癒す。
この順番を、間違えないでほしい。
もし今、自己開示できなくても。
自己開示できない自分を責めないでください。
今、言葉にならない話があるなら、まだ咀嚼中なだけ。
癒えたとき、
だれかに話したいと思ったとき、
その言葉はきっと、誰かの感情に触れる。
そして届いた反応が、あなたを前に進めてくれる。
「やらなきゃ」じゃなくて、「できるようになったとき」でいい。
それが、苦しくならない自己開示の本当の扱い方だと思います。



サブスタよく自己開示されてますよね!
やりたくなった時って思うといつかできそうな気がします✨
生傷のまま出して消耗した経験、私にも思い当たります。癒えてから言葉にする、その順番を大切にしていきますね☺️🫶💐