仮想敵という名の武器
Xを開くたびに、少しずつ疲れていった。
投稿するたびに数字を確認して、
伸びなければ
なにがいけなかったのかを考えまた投稿する。
バズると嬉しいのに、
翌日にはもう次のことを考えている。
休んだら置いていかれる気がしてやめられない。
そういう日々を、あなたは送ったことはないだろうか。
私にはあった。
だからSubstackに来たとき、なんだかほっとした。
煽りがない。
数字が主張してこない。
読みたい人が読みに来てくれる。
気づけばXのことを
「あっちの世界」と呼ぶようになっていた。
いま私も含め
Substackで発信している
クリエイターの多くが、
同じような語り口を持っている。
「XやThreadsで消耗した」
「数字を追うのに疲れた」
「あの文化が嫌だった」
そういう言葉が、読者の心をつかむ。
なぜなのか、それはみんな、
似たような傷を持っているからだと思う。
この話を読んで、
「わかる」と思った人もいるかもしれない。
「私もそうだった」と胸がざわっとした人もいるかもしれない。
あるいは、
「でも自分はやっぱりXが好きだけどな」
と少し身構えた人もいるかもしれない。
どの反応も、正直なあなたの気持ちだと思う。
ただ一つだけ気づいてほしいのは、
ここまで読んでくれているならば、
あなたの感情は
すでに動いているということです。
これが、仮想敵の仕組みです。
仮想敵とは何か
マーケティングや発信の文脈で言う仮想敵とは、
「自分の立場を定義するために置く、対立軸」のことだ。
特定の誰かである必要はない。
Xの消耗戦
フォロワー数を追いかける日々
バズのためだけのコンテンツ
数字に踊らされる自分
こういう「状態」や「文化」を仮想敵にすることができる。
Substackでよくあるのがこれだ。
XやThreadsで疲弊した経験を仮想敵に置いて、
「だからSubstackに来た」と語る。
読んでいる側は、
自分がXで傷ついた記憶、
思わず燃えてしまった投稿、
消耗した感覚を一緒に思い出す。
「私の話だ」と思った瞬間、人は動くものです。
なぜこんなに刺さるのか
発信をしている人の多くが、
一度はXやThreadsでなにかしら経験している。
過剰な発信を求められた。
数字が上がらなくて自分を責めた。
うっかり何かを言って燃えた。
あるいは誰かが燃えているのを見て、怖くなった。
書けない日があった。
そういう傷が、記憶に残っている。
仮想敵を立てた発信は、その傷に触れる。
「あなたが経験してきたあれは、
おかしかったんだよ」と言ってもらえる感覚。
それが共感になり、
「私もそうです」というコメントになり、引用になり、拡散になる。
テクニックとして見れば、これは非常に強力な武器です。
自分が何者であるかを語るとき、
「私はこれが好きだ」と言うより
「私はこれが嫌いだ」と言う方が、輪郭がくっきりする。
嫌いなものをいえる人間は、
信念が、軸があるように見える。
でも、ここからが本題だ
仮想敵は、諸刃の剣。
特定の仮想敵を立てると、そこで生まれた共感が一気に空気を作る。
「そうだよね」「わかる」という声が集まり、場の温度が上がる。
その空気の中にいると、
それが正しい側にいるような感覚になる。
居心地がいいし安心する。
でも、その空気はいつの間にか向きを変える。それこそ静かに。
「状態」や「文化」を敵にしている間はまだいい。
でも人間はいつしか、そこに「顔」をつけ始める。
「Xで疲弊する発信文化」が仮想敵だったはずが、
いつの間にか「あのタイプの発信者」になり、
やがて「あいつ」になっていく。
名前は出ていなくても読む人には伝わる。
そういう投稿を、あなたも見たことがあるはずだ。
そしてそれは思いのほか伸びる。
コメントが増える。
「わかります」が増える。
引用が増える。
数字が上がる。
発信者にとって、これは麻薬に近い体験だ。
攻撃的であればあるほど、数字が返ってくる。
共通の敵を持った人たちは、急速に結束する。
コミュニティが生まれたように見える。
でもそれは、共感で作られたコミュニティじゃない。憎しみで作られた群衆だ。
私が怖いと思うこと
特定の誰かを指差して、批判する発信がある。
その人が実際に問題のある行動をしたとしても、
発信者がそれを「コンテンツ」として使った瞬間に、根本が変わる。
批判は正義の顔をしていても、その裏で数字を稼いでいる。
拡散されるたびに、誰かが傷ついていく。
怖いのは、それをやっている人が悪意を持っているとは限らないことだ。
最初は純粋に「おかしいと思ったから言った」だったかもしれない。
でも数字が返ってくる体験を繰り返すうちに、
脳がそれを「正しいやり方」として学習していく。
気づかないうちに、誰かを傷つけることで自分を定義するようになっていく。
じゃあ仮想敵を使うなということかというと
そうじゃない。
「文化」や「状態」を仮想敵にすることは、
正直に言えば私もやっています。
それは有効だし、読者の経験に触れる力がある。
ただ、一つだけ自問自答することがあるとしたら。
「これは誰かを照らすためか、それとも誰かを燃やすためか」
仮想敵を立てるとき、その先に何を伝えたいのかを考える。
共感した人が、少し楽になれる場所を作りたいのか。
それともただ数字が欲しいのか。
あるいは自分を満たしたいだけなのか。
発信は、自分が何者であるかの定義だ。
仮想敵の立て方もまた、発信者が何者であるかを定義する。
最後に少しだけ。
この記事を書きながら、何度も書き直した。
仮想敵という概念は便利すぎて、
説明しようとするたびに自分もその罠にはまりそうになる。
誰かを照らしたくて書いているのか、
それとも自分が正しいと言いたくて書いているのか。その境界線は、思っているより曖昧だ。
それは私も同じで、偉そうなことを言える立場ではありません。
だからこそ、こねくりこねくり書いた。
誤解なく伝わればいいなと思いながら。



みんな同じ人間なのにね
自分を証明するための比較はちょっと